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天狐
その姿、月光をまといて銀に輝く。
地に豊饒をもたらす神の使い。
竹林に現るは幻の狐姫の社。
嘘か真か、小さな祠の言い伝え――天狐沙耶姫の物語。
★
むかしむかし、ここにはまだ村もなく、広い竹林が広がるばかりの土地だった。
都からはそう遠くないはずだったが、妖が出ると噂され近寄るものはいなかった。
ある霧の深い夜のこと、一人の若い侍が知らぬ間に竹林に迷い込んだ。
少し酒に酔っていた侍は、興味ばかりが先に立ち、妖とは何ぞと呟きながら竹林を進んでいく。
ずいぶん歩いてから侍は振り返った。
おや、まだ竹林の出口が見えている。
酔ってぐるぐる回っていたのだろうか。
それとも妖が奥に入れぬようにと呪をかけたのだろうか。
なるほど、なるほど。
そんなもの、この俺が打ち破って見せよう。
侍はずいぶん酔っていて、クスクスと笑いながらまた林を進んだ。
しかし、進んでも進んでも一向に進んだ気がしない。
あきもせずに意気揚々と歩んでいた侍だったが、ついに酔いに負けて座り込み、眠ってしまった。ちょうど何か大きな岩があり、それに背を預けてすうすうと。
朝まで眠っていれば、気付かずにいただろうに。
霧の寒さと酔いがさめかけたせいで侍は眼を覚まし、目の前に広がっている景色に呆然とした。
後ろにあるのは先ほどの大岩。
しかし、来た道を振り返っても出口は見えずに竹林が続く。
そして、竹林が広がっていたはずの前方には、霧の中にぼやりと佇む立派な屋敷だった。
少し酔いは冷めてしまったが、男はふらふらと庭に入って行った。
こんなところに屋敷がある。
不思議なこともあるものだ。
妖は贅沢な暮しをしているらしい。
屋敷が立派なら庭も立派。
都の貴族でもこれほどの屋敷に住めるだろうかと侍はただただあっけにとられるだけだった。
そらにはまん丸の月が浮かび、庭を照らしていた。
その時、どこからか女の歌声が聞こえてきた。
なんと表せばよいものか、水のような風のような鈴の音のような響きだった。
侍の胸は高鳴り、同時に安らいでいた。
そして、声の主はゆっくりと屋敷の中から現れた。
なんと。
これほど美しい姫がどこにおろうや。
もはや姫が妖であろうことなど侍の意識の中には残らなかった。
姫はすぐに侍に気づいて、驚いた顔をした。あわてて扇を取り出して、顔を隠す。
侍は道に迷ってしまったのだと話した。
勝手に入って申し訳ないと謝れば、姫はそれを許した。
月夜の庭を眺めながら、二人は長い間話した。
扇で隠した顔はもう見られなかったが、聞こえてくる声は変わらず可憐であった。
ここはどこかと侍がたずねる。
竹林でございましょうと姫が答える。
どなたの屋敷かと侍がたずねる。
竹林の主でございましょうと姫が答える。
何をたずねても、曖昧な答えしか返ってこなかった。
やがて侍はまた眠ってしまった。
酒のせいであったのか、妖のせいであったのか。
目が覚めた時には竹林の入り口で大の字になって転がっていた。
あれは夢だったのだと侍は思った。
慣れない酒を飲みすぎたせいだ。
あれから何度竹林に行っても屋敷は見えない。昼間に行くからダメなのだろうかと、夜になって行ってみたが、あの大岩さえ見つけられなかった。
★
半年ほどが過ぎ、侍はすっかり夢のことは忘れていた。
主の使いで遠出をした帰り道、雲行きが怪しいと思っていたら、すぐに嵐がやってきた。供と二人、せめて身を隠せる場所を探そうとしたが、都にはまだ遠く、小さな小屋すら見つけられなかった。
そして、とうとう山道の途中で、足を滑らせた供が大怪我を負う。
侍は困りはて、まだ息のある供を担いで山を下りた。
どうせこのまま立ち止まっても、自分の命すら危ういだろう。
侍は歩き続け、ふと嵐が弱まった場所でようやく足を止めた。
ここは。
あの竹林の入り口だった。
風にあおられて竹が揺れている。ここから離れればまたひどい嵐の中を行くことになるだろう。
侍は竹林の中に身を隠した。
少し中に入って嵐をやり過ごすつもりだった。
しかし、竹林に入ってすぐ、激しい嵐にも関わらず竹林には霧が立ち込めた。
なにごとだ。
夢を見た日のように酔ってはいない。侍は寒気を覚えた。
それでも、今にも息絶えそうな供を背負ったまま、竹林を奥へ進んだ。
当たり前のように大岩と屋敷はそこにあった。
何度通っても見つけられなかったはずなのに、まるで自分から姿をみせた。
やはり妖の住処であったのかとおびえはしたが、あの優しい姫のことを思い出し、侍は庭へと入った。
あの日と同じ月夜だった。不思議と嵐は嘘のように止んでいる。ここはいったい、どこなのだろう。
もし。
声をかけられて肝を冷やした。
気づかぬうちに扇で顔を隠した姫がそこにいた。
困っておられるご様子、わたくしが看病いたしましょう。
屋敷に招かれ、横たえた供の傍に座る侍に、姫は小箱を差し出した。
そこには青と白の丸い薬が入っていた。
青い薬を飲ませなさい。きっとよくなることでしょう。
白い薬には触れないように。
言われたとおりに青い薬を供の口に入れてやる。
あとはゆっくり休ませるのがよいでしょう、と姫は侍を別の部屋へ案内した。
供の体がよくなるまで、屋敷にいてもよいと姫は言う。
しかし、一度も供の様子を見に連れて行ってはくれなかった。
姫は侍と供の部屋をいったりきたり、あわてる様子もない優雅なふるまいではあったが、侍は少し不満だった。
最初は供の様子が気になるだけだったが、いつしかそれが嫉妬に代わる。
供を気に掛ける姫を盗られたように感じていた。
夢が夢でなかったことよりも、今屋敷にいてそこに姫がいることだけが、侍の胸をあふれんばかりに満たしていた。
ある日、姫が供の様子を見に行ったすきに、侍は自分の部屋を出た。
勝手に屋敷をうろつかないようにと言われてはいたが、二人の様子が気になってしかたない。
足音を立てぬように数歩進む。
どこへ行かれるのです。
後ろから聞こえた声に、気配を悟られぬようにと努めていた侍の方が驚いた。
振り向けば、扇も持たぬ姫が立っていた。
あの美しい顔を再び見られるとは思わなかった。
侍は約束を破ったことをわびたが、姫の表情は暗かった。
これまでの姫は扇で顔を隠していたものの、隠しきれない輝きのようなものを感じていた。目の前にいるのはまるで死人のような姫だった。
それほどまでに怒らせたのかと、侍は自分の非礼を何度も詫び、部屋に戻ることにした。
姫に背を向け、足を踏み出した。
いや何か、これは殺気か。
すぐに振り向こうとした侍は、やはり姫は妖であったかと思った。
けれど、振り向く前に今度は目の前に姫が現れた。
慌てたようすで扇を開く暇もなくやってきたように見えた。姫は死人のような顔ではなかった。 これはいったいどういうことだと、侍が振り向くと、そこには一人の男がいた。姫によく似た顔の死人のような暗い男だった。
姫は彼を弟だと言った。
しかし、さっきは確かに姫の姿を見たのだと侍は譲らない。
双子だから似ていても不思議ではありません。貴方は疲れているだけ。
そう言って姫は泣く。
あまりにさめざめと泣く姫を見て、侍は追及するのをやめた。
おかげで姫の扇がはずれた。
こうして遮るものもなく会話ができるのがうれしかった。
けれど、確かに姫は弟のように暗くはなかったが、少しやつれているように見えた。供の看病に疲れているのだろうか。
今日はもう休みましょうと侍が席を立つとき、ちらりと見えた。
姫は小箱の中から白い薬を取って口に入れていた。
供の具合がよくなったと聞いて侍は喜んだが、同時に落胆した。 姫は侍にもう二度と来るなと言ったのだ。
迷うことなく侍は嫌だと答えた。
私は姫を愛しているのだと言った。
それを聞いたとたん、姫はふらりと倒れてしまう。
薬を。
侍は急いで小箱を開いたが、そう聞こえたのを最後に姫は気を失ってしまった。
すると、すぐにあの弟がやってきて、姫を抱き上げる。
さっさと出て行け、二度と姉に会いに来るなと弟はきつく言った。
死人のような顔が怒りに満ちていた。
★
どうやって戻ったのかわからない。
侍は供と二人で都にいて、供は何も覚えていないようだった。
それからというもの侍は魂がぬけたように過ごした。
姫に飲ませるつもりで取った白い薬を一粒、持ってきてしまった。
それをじっと眺めてぼうっと過ごす。
姫は持病持ちだったのだろうか。
医者に聞いたが何の薬かわからなかった。
倒れた姫が気にかかる。
とうとう、我慢できずに、侍は月夜の晩に竹林へと向かった。
不思議と竹林に入るとすぐに霧が出た。
侍は恐れもせずに屋敷へ入った。
来るなと言ったのに。
姿を見せたのは弟だった。
姫は無事かとたずねたら、弟はしばらく考え、ついてこいと言った。
姿を見るだけ、話しかけてはならんと約束し、弟は侍を庭へ連れて行く。
月明かりに照らされたあの美しい庭で、姫はその光をいっぱいに浴びて、心地よさそうに歌っていた。
あぁ、なんと、神々しい美しさか。
やがて、姫は浴びた光を体にとどめるように輝きだす。
今更驚きもしなかった。姫の頭に狐の耳がはえたと思ったら、その姿は銀に輝く狐となった。
もう、心残りはなかろう。
姫の様子に見入っていた侍に、隣にいた弟が言った。
いつぞや感じた殺気がやはり彼のものであったと知った。
弟の眼は釣り上り、口は大きく裂け、今にも振り下ろさんとするのは鋭く大きな爪のある獣の腕だった。
あの姿を見られて、お前を帰すわけにはいかないのだ。
弟は最初からこのしつこい侍を殺すつもりだったのだろう。
腰を抜かす侍に歩み寄りながら、弟は語った。
お前が屋敷にいるあいだ、姉はあぁして力を蓄えることができずに薬でまかなっていたのだ。だから倒れた。おまえは邪魔だ。
弟の爪が侍の腹を裂く。
銀の月夜に血しぶきが舞い、倒れる侍の耳に姫の叫びが聞こえた。
駆け寄って寄り添うと侍は笑みを浮かべた。
やはり、誰よりも、この世の何よりも、貴女は美しい。
姫はおいおいと泣いた。
供にやったと同じように記憶を奪えばそれでよかったではないかと弟を責めた。
これほどの傷をもう治してやることはできない。
姫は泣きじゃくり、弟はいつの間にかもとの美しい死人の顔に戻った。
おまえは白い薬を持っているだろう。
それを飲めば命は助かる。
弟はそう言った。
しかし、姫は顔色を変え、弟と侍を交互に見やる。
二人の様子を見て、きっと命が助かるだけで済まないのだろうとわかった。
侍は今にも消えそうな呼吸をゆっくりと繰り返し、懐に入れていた薬を取り出した。
どうせ助からぬものなら、何が起ころうと構わない。
せめてあと一度、ほほ笑む姫と話がしたい。
侍は薬をのみこんだ。
体を熱い何かがかけめぐる。
やはり死ぬのかと思ったほどにそれは侍を苦しめた。
意識が遠のく。
姫の顔がぼやけて消える。
姫の腕にあずけた侍の顔には微笑みがあった。
★
意識があると気づいた時、そばには誰もいなかった。
そこが屋敷の中であることはわかったが、自分が一体どうなったのかわからない。
かすかな足音が聞こえ、姫が来たとわかった。
今まで一度も屋敷の中で誰かの気配など感じたことはなかったのに、思ったよりも多くの気配があった。それら一つ一つが誰のものかわかるような気がしていた。
寂しい屋敷と思っていたが、こうも賑やかだったとは。
やがて姫は戸を開けて、侍の傍にやってきた。
ごめんなさい。
だましていてごめんなさい。
こんな目にあわせてごめんなさい。
姫はひたすらに詫びた。
侍は命が助かったのに謝ることなどないと言ったが、姫は話した。
あなたは白い薬を飲んだ。
わたくしがなぜあの薬を飲んでいたかをご存じであるならば、もう疑うこともありますまい。
あなたは月の妖力を得た。
人にあらず、妖にあらず。
人には恐れられ、妖には蔑まれる半妖でございます。
どれほど辛かろうと、人のように簡単に死ぬこともできません。
どれほど励もうと、妖のように自由に生きることもできません。
弟を恨まないで、あれはわたくしを思ってしたこと。
本当は人間を愛することなど、許されないことだから。
わたくしが貴方を惜しんだばかりに、あの時止めていれば貴方は人として死ねたのに。
嘆いて詫びる姫を見つめて、侍は首を振る。
それでもアナタは妖なのに、こうして側にいてくれる。
薬を飲んだのは、貴女のせいではなく、私が貴方を惜しんだからだ。
もう一度ほほ笑む顔が見たいと思ったからだ。
だから泣かずにいてほしい。
思えばあの熱いものは貴女に出会ったときにも感じていた。
きっと、私は最初から貴女の魅力にとりつかれ、ソレナシでは生きられなくなっていたのだ。
おなじこと。
おなじことだ。
侍は満足だと言った。
貴女が微笑んでそこにいてくれるなら、満足だと侍は言った。
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昔、金に光る目をした侍がいたという。
獣のように光るその瞳、牙、爪。
常人とはかけはなれた身体能力で、味方をも寄せ付けない猛将だったと言われる。見た目は恐ろしいが、彼は誰より優しくよく国を思う侍だった。
そして、不思議に歳をとることをしらないほど若々しかった。
何かの術者ではないかと噂も立ったが、時が進み、世が変わるころにはもう、侍は忽然と姿を消していたという。
いつしか削り取られ残り僅かになった竹林に、今は小さな祠が立っている。
まん丸月夜に祠へ行くと、美しい黒髪の姫と金色の目の侍を見かけることがある。
そんな噂と祠だけが、今もひっそり残っている。
End.
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