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 ネズミ色の空を淋しげに見つめる金色の瞳が一対、暗い海の中に浮かんでいた。
 いつから海はこんなに汚れてしまったのか、透き通った水などこの世に存在しないかのように、その海は暗く冷たかった。
 ゆっくりと海岸に近寄る金色の瞳は、何かに怯えたように、それでも何かを決意したかのように、ゆらゆらと汚れた海の中を進んだ。
 金色の瞳はそっと岩陰に隠れながら、海面からその姿を現した。
 とてもここでは想像できないほど、美しい澄んだ海の波打ち際を思わせる長い長い銀色の髪。その間から覗く金色の瞳は、端正に整った美しい女性のものだった。
 彼女はその視線を海岸沿いの高台に巡らせた。
 高台にはいくつかの建物がならんでいる。そこはかつてこの海が美しかった頃の別荘地だった。今はもう、別荘として利用されている所は一つもない。わざわざ休日を利用してまで汚れた海に来る必要のない資産家達が、安く手放したのだ。それでもそのほとんどが空き家となっている。
 たった一つ、その薄暗い空に浮かぶ明かりが、彼女の目に留まった。
 ゆっくりと岩影から離れた彼女の下半身は、髪と同じ、銀色の鱗に覆われている。
 彼女はその明かりを淋しげな瞳で見つめ、海岸から離れた。

 遠い遠い異国の美しく透き通った海。それが彼女の住むべき場所だ。
 しかし彼女はある時見てしまったのだった。その海の色と変わらぬ透き通った青い瞳の青年を。月の綺麗な夜だった。それから毎晩、彼女は想った。
 彼に会いたい──。
 毎日毎日、海岸に通ったが、その青年を見たのはその一度きりだった。
 彼女は悲しみにその声を失った。かつて美しいメロディを口ずさんでいたその唇が、彼を思い硬く閉ざされた。
 悲しみに暮れた彼女は、ある時その美しい海を捨てた。愛しいあの人に一目会うことができるなら、もう二度と戻れなくとも後悔しないだろうと。

 どれほど泳いだかわからない。
 途中、空を行く海鳥たちを羨んだ。翼があれば彼の所へすぐに飛んでいけるだろうに。
 波の音、それは彼女にとって共に歌う仲間だった。しかし、それも今では淋しさを増長させるだけの悲しい旋律だ。
 会いたいと願うほどに淋しさが膨らんで、途方に暮れていた彼女を哀れに想った波が、彼のいるこの海を教えてくれた。
 汚れた水に苦しみながら、とうとうこんなところまで来てしまった。故郷を想う気持ちももう忘れた。彼に会えるかもしれない、その想いだけで彼女は生きていた。

 海岸から少し離れたところから、彼のいるその建物を見つめ続けた。
 ここまできたら後もう少し、それなのに、彼女には大地を踏む二本の足がない。
 こんなに側にいるのに──。
 会いたい──。
 悲しむ彼女に海は言った。よどみ汚れきった力で良ければ貸そう、と。
 彼女の美しい銀の鱗は、その海の力で二本の足へと形を変えた。
 彼女は喜び、恐る恐る水から出た。
 運命だろうか、偶然にもそこに現れた青年は、彼女を見て驚いた。汚れた海に似合わない美しい娘。いつか訪れた異国の海を思い起こさせる美しいその姿。
 見つめ合い恋に落ちた。
 青年は尋ねた。君はどこから来たのか、何という名か。
 しかし、彼女は声を失っていた。悲しみのあまり無くした声は、彼に出会っても戻っては来なかった。
 悲しげにうつむ俯く彼女に、彼はもう何も聞かなかった。

 それからしばらく二人は幸せに暮らした。誰も邪魔せぬ二人きりの時。彼女は自分がかつて何であったかも覚えていなかった。
 いつしか青年の子を身ごもった彼女は、同時にその身体の異変に気付いた。
 腰の辺りにきらきら光る銀色の鱗がよみがえ蘇ったのだ。
 彼女は海岸で一人泣いた。自分は人間ではなかったのだ、と。そして生まれてくる子も人間ではないかもしれないのだ、と。
 汚れた海は彼女に詫びた。汚れきってしまった力は、あなたを人間にすることはできなかった。ましてや子を身ごもれば二人同時に力を与えることはできない。子が育てばあなたは元の姿に返るだろう。青年と共に暮らしたいなら子をあきらめなさい。
 彼女は泣いた。毎日毎日。青年が心配してどうしたのかと尋ねても彼女は声を上げずに泣くだけだった。彼女には声がない。
 銀の鱗は足を半分まで覆い尽くそうとしていた。
 彼女はとうとう決心した。
 彼の愛を信じよう。

 そして、二人は共に海岸に出た。
 二人が出会った場所。青年はそう言って微笑んだ。
 しかし、彼女は首を振って海の向こう、ずっと遠くを指さした。
 思い出す、美しい故郷の海。
 自然と彼女の唇が開いた。
 青年は驚いて目を見張った。
 その美しい歌声が誰のものかを知って、さらに驚き、喜びに胸を弾ませた。
 きつく抱きしめられ、そのぬくもりを、決して忘れまいと彼女は誓う。

 振り返り、彼女は言った。あなたに出会ったのはわたしの故郷、遠い遠い異国の海。その海によく似たあなたの瞳に、もう一度会いたくて、ここまできた。わたしは…。
 彼女は腰から膝あたりまでを鱗に覆われたその足を青年に見せた。言葉にならないほど驚き、青年は首を振った。
 人間でないわたしとわたしの子。あなたはそれでも愛してくれますか──。
 差し伸べた彼女の手に、青年は触れようとしなかった。身体は震え、青い瞳は呆然と曇った。
 愛してくれますか──。
 青年は首を振った。そして彼女の細い手を払った。

 ──人間の心は存外に小さい。

 彼女は真珠のような涙をこぼし、その場に泣き崩れた。
 海が言う。水を汚したのは人間。自分たち以外のものを受け入れられぬのが人間。愚かな生き物だ──。
 全ての悲しみに耐えきれなくなった彼女の身体は、海の泡となって散った。
 きらきらと輝きながら、汚れた海に散り失せる瞬間、彼女は後悔した。
 故郷の美しい海のことを思いだし、暖かく幸せだった日々を思い出し、あの海を捨てたことを後悔した。
 求めたものは予想以上に罪だった。
 会いたい─ただ、それだけだったのに─。
 泡は本来帰るべきだった美しい海ではなく、汚れた悲しみだらけの海に消えた。

 残された青年は呆然とその場に膝をついた。
 彼女が人間でないことすら信じられないうちに、彼女は目の前から消えてしまった。彼女が死んでしまったことなど、信じられるわけがない……しかしそれはまぎれもない事実。
 謝ろうにも彼女の耳には届かない。
 抱きしめようにも彼女の身体はどこにもない。
 たったの一瞬だったのに、彼女は青年に詫びる暇も与えなかった。
 青年は声を上げて泣いた。
 そんな彼を見て、海は言った。

 哀れな、そして愚かな青年よ。お前の愛したものはもういない。二度と帰ってこないだろう。
 わたしを見よ。かつてお前達が愛したわたしの姿を。
 すっかり汚れてしまった。もう二度と戻れない。
 愚かな人間よ。心狭き人間よ。かつてわたしが産んだお前達の罪はわたしの罪か──。
 愛したはずではなかったか、心狭き我が息子よ。一度の過ちが取り返しのつかないこともあるのだと知れ。平気で過つのが人間ならば、無くして気付くのも人間だ。
 愚かな人間よ。なぜお前達に知恵を与えたかを考えよ。

 青年は海にすがった。彼女を返して欲しい。もう一度やり直したい、君が何であろうと愛していると伝えたい。もう二度と同じ過ちは繰り返さないと誓う。
 海は呟いた。
 二度とは返らぬ。──息子よ、後を見るな先を見よ、今を忘れるな過去を忘れよ。残されたものを守る義務がお前にはあるのだ。
 それっきり海はただ静かに波打っていた。
 青年はその場に立ちつくし、空が暗くなるまでそこを動かなかった。

 ──あれは…なんだ。
 青年は海の向こうから何かが流れてくるのを見て取った。それは何で出来ているのか、銀色に輝くものだった。
 思わず青年は海に入っていった。腰まで水につかって、その銀色のものをのぞきこんだ。
 それは貝殻のようで、その光り輝きは愛する人の髪の色、そしてあの美しい鱗の色だった。
 中にいたのは、小さな生まれたばかりの赤ん坊だった。
 青年は悟った。
 それは彼女との間に出来た子だと。
 彼はその赤ん坊を抱き上げ、海から上がった。
 無くしたものは大きく、残されたものは重かった。
 しかし、彼は決してその赤ん坊を離そうとはしなかった。
 彼は腕の中ですやすやと眠る我が子に彼女を重ね、愛を囁いた。

 数年後、海岸では美しい異国の海を歌う歌声が聞こえるようになった。
 銀色の髪の少女がその歌を歌うと、その度に海岸には無数の輝く泡がうち寄せたという。

End.

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