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砂に貝殻 波に花 第5話 約束
次の日の朝、ソウタは約束通りジェミーを迎えに来た。
ジェミーはまた男の子のような自分の服を着ていた。やっぱりこの方が落ち着くと笑う。ソウタも動きやすい格好の方がいいんだと頷いた。
ヒノカは昨夜、帰りが遅かったことを怒らなかった。そして、わざわざ今日は昼ごはんまで包んでくれた。仕事を手伝わないことも、何も言わなかった。
二人はアサキの家を出て、あまり会話もせずに歩いた。
どこへ行くのと聞かれても、ソウタは答えず、黙々と行く。
向かっているのは島唯一の山。それほど大きくもなく、深い森に覆われるわけでもなく、どちらかと言えば岩場が多く、山というよりは巨大な岩の塊のようだった。
それでもその隙間からたくましく生きる植物たちが茂っている。
ジェミーは岩山を登っていくソウタにほとんど遅れることなくついてきていた。少し息が切れるのも構わずに。
わかっているのかどうか、ソウタは振り返らなかったし、速度を変えることも、ジェミーを気遣うこともしなかった。それでも、声をかけてソウタの足を止めるとか、少し休んで追いかけるとか、そんなことは少しも思わなかった。
ようやく、ソウタが足を止めた時、ジェミーはたまらず座り込む。やはり少し無理があったようだ。
座り込んだそこには土があって、草が生えていた。
「ここじゃ…ほら、あそこ」
「え…」
ソウタの指さす方を見ると、岩山にしっかりと根を張った一本の小さな木があった。花びらの大きな白い花が咲いている。
差し出すソウタの手をとり、立ち上がって木の方へ近づくと、斜めに延びた木のすぐ向こうは崖のようになっていて、花びらはそこからひらひらと落ちていた。
崖を覗きこめばそんなに高くもなく、そこにはまだ小川にもならない細い水の道があった。
「湧き水なんじゃ、ここから昨日の浜へつながっとる」
「へぇ、花びらはここから来たのね」
「そうじゃ」
「…この花、他には咲いてないの?」
「うん」
二人は小さな崖に足を投げ出して座る。
花が散る時期なのか、風もないのに花びらは時々落ちていった。けれどその全てが海へ流れていくわけではないとわかる。
水の道はまだとても細くて、ほとんどの花びらはその脇に落ちてそれっきりだ。流れていった花びらも海にたどり着く前にどこかに張り付いてしまうものがほとんどだろう。昨日の花びらが海に出たのは、ある意味奇跡だったのかもしれない。
「俺が…あんたみたいなのを助けようとしたのは二度目なんじゃ」
ソウタが切り出した。
「父ちゃんと母ちゃんが死んでから、そんなに経ってなかった…」
その人は小さな舟に乗って流れてきた。
それも、たまたまだったと思う。潮の流れが少しでも違えば、舟は島を通り越し、気を失ったまま海の真ん中で死んだだろう。
流れ着いた舟に倒れていたのは男だった。しかも大人の男だ。ソウタには担いで行くこともできなかったから、まるで拾った犬に内緒で餌を運ぶようにして男が目を覚ますのを待った。
彼は目を覚まし、ソウタの持って行ったモノを食べ、自分の足でソウタの小屋まで来ることができた。
「あの人は自分が死ぬのがわかっとったんじゃ」
ソウタは花びらを散らす木を見上げて言った。
「なおらん病気だと笑った。家族に負担をかけるから死ぬつもりで舟を出したと笑っとった。俺はまだ…あんまり意味がわからんかったんじゃ」
男は名前を教えてくれなかったが、帝国から来たのだとちらっと話したことがあった。
「どうせ死ぬから、名前もなんも、教える意味はないって…でも…」
ジェミーは何も言わずに聞いていた。ソウタは立ち上がって彼女の傍を離れ、木の陰に隠したものを手に取った。
それはひと振りの剣だった。
ソウタはそれを構え、真剣な目をして目に見えぬ敵をさばくように振った。
「剣術だけ、教えてくれたんじゃ。強い剣士になるのが夢で、これだけは無くしたくない……命より、惜しいモノだと…言ったんじゃ」
その剣士は目立たぬこの崖の上で、ソウタに剣術を教えた。村の誰も男がこの島で過ごしたことを知らない。彼は騒ぎの元になることを避けていた。
ソウタは剣を持ったまま、ジェミーの元へ戻り、それを二人の間に置いた。
「俺は…ホントは剣士になりたいんじゃ。あの人の夢は…この俺の手の中にある。でも…父ちゃんと母ちゃんと…島のみんなを無くすのが怖かったんじゃ」
ジェミーにはその剣が、ソウタにとって命より大切なものだとわかる。
同時に平和な島に育ったソウタには島での幸せもまた大切なものだった。
「あんたと話して、いろいろわかった」
ソウタはジェミーの手をとり、ぎゅっと握りしめた。
「あんたは家族も友達もなくしてなんかおらん」
「……」
「海の向こうの父ちゃんも、アサキさんもヒノカさんもヤスケも、ジェミーの家族じゃ。俺もゲドさんもエゥラも、ジェミーの友達じゃ…今からあんたがどこへ行こうと…俺がどこへ行こうと、無くならんもんじゃ…」
「…ソウタ」
「父ちゃんも母ちゃんも、あの人も…俺の中で生きとるわ。無くなってなんかおらん」
漁師をやめることも、剣士をあきらめることも、怖かった。
死んでしまった彼らが消えてしまうようで、怖かった。
死んだら何にも残らないと思っていた。
でも違うとわかった。
残せるものはある。
それは生きた証だ。
「ジェミーはまだ生きとるんじゃ。また消えとらん。終わっとらん…何かできることがあるんじゃ」
「…でも…私」
「もし、本当に…ジェミーが…思うようにしかならんとしても」
ジェミーは俺の中でずっと生きていく。
だから怖くなんかない。
あきらめるな。
本当に死ぬその瞬間まで、剣を握っていたあの人のように。
「…ソウタ…私…まだ、あきらめたくなんかない。死ぬのは怖いよ」
ジェミーはせきを切ったように泣き出した。
ソウタはジェミーを抱きしめた。
できることなら彼女の全てを、無くしたくないと。
大人のいう無謀を、勇気だと信じていられる少年だからこそ、少女を抱きしめる腕を緩めることはなかった。
★
岩山を降りた二人はまたナキ浜へ向かった。
これからどうするか、考えなければならない。
逃げるのは嫌だとジェミーは言った。
方法があるとすればそれはやはり金だったけれど、ソウタに金などあるわけもなく、シラナキのどこにもないとわかっている。
あきらめるなと言ったけど、できることがないことに変わりはない。
それでもジェミーはソウタの肩に頭を預けて微笑んだ。
泣くことさえ我慢したままいくよりも、ずっと心が軽くなったと微笑んだ。
「ソウタ、剣士になる夢を叶えてね」
「…うん」
「私の夢もそこに乗せて行って」
「……重いわ」
「そんなこと言わないで」
わかったと答えるのはまだ早い。
ソウタは目を閉じて、出口のない逃げ道を探していた。
シャラシャラと砂がなく。
足音に気づいて二人が振り返ると、そこにフィロウが立っていた。
「ジェミー、荷物を持って、船へ来なさい」
小さく息をのむのが聞こえた。ソウタはまるで悪魔から彼女を守るかのように、腕を伸ばした。
「まだ、船が出るまでにずいぶんあるはるじゃ…」
「そうだね、その通りだ」
小さな騎士の強い眼差しに、フィロウは頬笑みを浮かべた。
「ジェミーに頼みがあるんだ」
「え…?」
「船員たちが皆、私の刺青を羨ましがってね」
ソウタもジェミーも少し体から力を抜いた。フィロウは何を言っているのだろう。この微笑みは…。
「金を払うから、ジェロエンの娘に彫ってもらいたいと言うんだ」
フィロウは二人のそばまで歩み寄り、ひざをついた。腰をおろした二人と同じ高さの目線から彼は言う。
「でも、人数が多くてね。時間はかかるだろうし、とても大変だと思う。全ておわるころにはもう船が出るかもしれない」
もう、ソウタと遊んでいる時間はないかもしれないんだとフィロウは言った。
ジェミーの目にまた涙が浮かぶ。
「部下たちが金を出し惜しみするようなら私が言ってきかせよう。ジェロエンという男の素晴らしさとその娘の勇気がどれほどのものか」
フィロウは無謀だと言わなかった。
「ここでの商売に税金はかからないとしても、一人五千は堅いだろう。キミの腕はジェロエンより上だと聞いてる。もちろん、私が誰よりそれを知っているんだけどね…あぁ、それより…希望者が何人いるかの方が大事かな?」
ジェミーは首を振った。
これでも港町で育ったのだ。あれだけ大きな船に、どれだけの船員が必要か、知らないわけもない。
一人五千の金額にその数をかけるなんて、できっこない。
それだけの金があれば、ジェミーの命が助かるどころか、トルトで夢を果たす資金にすらなるだろう。
「……ソウタくん。私は…どうしてもキミの言葉が頭から離れなくてね」
「え…俺…?」
「そうだ。助けられる命は助けるもんだ…そうだったね?」
フィロウは言った。
金が手に入るのはジェミーの腕があるからこそだ。そうでなければ助けられるとは思わなかった。これ以上のことはできないから、あとはジェミーがどこまでできるかだけだ。
ありがとうと、言いたくても、出てくるのは泣き声だけで、フィロウはジェミーの頭を優しく撫でた。
ソウタが少しだけむっとしたのは内緒だが、いつか自分にもこういうかっこいい大人になる日が来るんだと、心の中で自分に言い聞かせていた。
★
ジェミーはフィロウと共に貨物船に戻っていった。
あれから一度も会っていない。船から降りてくる船員がジェミーのことを話しているのをちらっと聞いた気はするが、姿は見ていない。
ずっと船にこもって仕事を続けているらしい。
ソウタはいつものように過ごしながら、毎日のようにあの山へ通っていた。
あきらめないと約束したから。
ソウタはいつか剣士になると決めた。
ジェミーのいない日々はあっという間に過ぎていき、ある日の夕方、数日後に貨物船が島を離れるとサザじぃに聞いた。
ソウタはそれでも毎日小屋で黙って自分の仕事を続ける。
漁に使う網を直すのもずいぶん慣れた。
その手には剣を握ったマメだらけ。
ふっと明かりが揺れて、ソウタは顔をあげた。
そういえば、明日、船が出る。
ジェミーはどうしているだろう。
コンコンと小屋の戸を叩く音がした。
「ソウタ…」
すぐに網を放り出して、ソウタはがたついた戸を開いた。
少し疲れた顔のジェミーが立っていた。
「ジェミー…どうしたんじゃ、こんな時間に」
「明日…ここを出るから、挨拶してきていいって、船長さんが…」
「そうか…」
「入ってもいい?」
「うん」
二人は小さな明かりをはさんで座った。
今更、改めて話すこともないような気がする。
「私が夢をあきらめずにいられたのはソウタのおかげよ。ありがとう」
「…俺は…何もしとらん。ジェミーが頑張っただけじゃ」
「そんなことない。ソウタが船長さんにあんなこと言わなかったら、こうはならなかったもん」
「……俺の方こそ、ジェミーがおらんかったら、剣士になろうなんて思わんかった」
「あきらめずに頑張ってくれるのね」
「あたりまえじゃ、約束したことは守るんが男じゃ」
「男も女もないわよ。私も絶対夢をかなえるから…」
黙ってしまうと、遠くに波の音が聞こえた。
船は明日の朝出る。もうナキ浜に行く時間もない。
島を出る前にもう一度だけあの音を聞きたかった。
「また、会いたいよ、ソウタ」
「…ん」
「私、これからフゥガに行くの。そこで腕を磨いて有名になる。ソウタがすぐに見つけられるように…だから、剣士になったら…会いに来て?」
「……あぁ、絶対行くわ」
「絶対ね…」
ジェミーは涙を浮かべて微笑んだ。
剣士になってなかったら、店を追い出してやるからと言えば、ソウタもまた、有名になってなかったら、見つけ出してやらんわと言った。
「もう一つ、お願いがあるの」
「なんじゃ…」
「…もし、嫌じゃなかったらだけど…」
ジェミーのお願いを聞いて、ソウタは少しだけ驚いた。
でも、迷わずにコクリと頷いた。
「時間は…大丈夫なんか?」
「うん。明日の朝までに船に戻ればいい」
「そうか…」
その夜、ソウタの小屋から灯りが消えることはなかった。
目覚めたらジェミーはもういなかった。
貨物船もいなくなっていた。
見送りにいかなかったのはわざとだ。
かっこわるく泣いてしまうのが嫌だったし、昨夜あんまり寝ていなかったから。
シラナキはまた静かな毎日を取り戻していた。
やっぱり、この方がいい。
シラナキは静かなままがいい。
その日から、ソウタはしばらく漁に出なかった。
サザじぃもアサキも気を使って何も言わなかったが…本当は、出たくなかったわけじゃなく、出られなかっただけだった。
いつも気持ちいいと思っていたあの潮水が、ソウタに悲鳴を上げさせる。
ジェミーの刻んだ約束を大事にそっと撫でる手は、やぶれたマメでいっぱいだった。
★
あれから五年。
トルトのフゥガの港町に、腕のいい女彫り師がいると噂になっていた。
すらりと伸びた手足に栗色のツヤツヤした長い髪の異国の女だ。
キリリとしたまなざしも、トルトの女にはあり得ない手足をおしげなくさらすようなその服装も、男たちを舞いあがらせたが、口を開けば男勝りで、間抜けな客は蹴りだされる。
客はほとんど男だが、彼女は女友達ばかりと付き合った。
仕事一筋と言い張って、誰が言いよっても首を縦にふらないばかりに、男が嫌いなんだとか、本当は女が好きなんだとか、あらぬ噂まで立てられた。
けれど彼女は、金さえ払えばそれにみあった見事な彫り物をほどこした。
悪い噂も鼻で笑って喜んだ。
それだけ私の名が売れただけだと彼女は言った。
中には蹴りだされるのに病みつきになった阿呆もいるが、彼女はそんなことにも動じない。
ただひたすらに腕を磨いた。
たまには着飾って遊びに行こうと誘われても断る彼女に、女友達が理由を尋ねればこう答えた。
約束したから。
それに、金をためたら、故郷にいる父を呼んでやりたいのだと。
小さな舟と大きな船とは揺れが違う。
わかってはいても、好きにはなれない。
フゥガの港にようやく錨をおろしたその船は、リャンコウ王国からの定期船だ。 荷物は載せずに多くの人の行き交いだけを目的とした船である。
今日もまた、フゥガの町に数十人がやってきて、同じくらいのヒトがリャンコウへと旅立つ。
ヒトが増えれば治安は悪くなるものだ。
船を降りて少し道を曲がれば酔っぱらいがふらふらと。
「んぁあ! 邪魔くさい犬畜生め、おら、どけ、どかんか」
つまづきそうになった酔っぱらいは腹を空かせてよろめく野良犬を蹴とばした。キャンと悲鳴を上げても、かみつく元気もなさそうだ。
ゴン。
「いてぇ!」
いきなり頭のてっぺんを殴られたよっぱらいは大げさに叫んで振り返った。
そこには背の高い若者が立っていて、肩にとんと当てているのは鞘に収まった刀だ。それで殴られたのだとわかった。
「何しやがるんだ、てめぇ」
「阿呆、助けられる命は助けるもんじゃ」
そう言った若い男はニコニコと無邪気そうな笑顔で野良犬に持っていた食べ物をやった。
「阿呆はおまえだ、田舎者!」
「ん? 俺は田舎者じゃが、阿呆とは違うわ」
「そんな飾り刀振り回して痛い目みたいのか、えぇおい」
酔っぱらいの周りに、いつの間にやらガラの悪いのが集まってきた。
若者はおおげさにため息をついて、よいしょと立ち上がる。
「言っとくが抜かんぞ。抜いたら俺が罪になるわ」
そう言って鞘におさめたままの刀を逆手に持って構えた。勢いで刀が飛び出ぬように、鞘と柄をしっかりと握り、構えは見知った剣術とは少し違うような気もする。
「さぁ、かかってこい阿呆ども」
ニヤニヤと笑い、身を低くすれば、一つにまとめた黒髪がふわりと舞う。
「くぉの、くそなまいきなガキがぁぁあ!」
業を煮やした「阿呆」どもは一斉に若者に襲いかかった。
若者はあははと楽しそうに笑った。
「むやみに突っ込んで来てもどうにもならんわ、ほれ、腰がひけとるぞ」
力も入れずに鞘でつけば、阿呆は一人倒れてもがいた。
また一人、また一人、軽く小突いただけで皆ふっとぶ。
見ていた野次馬たちは次第に盛り上がり、わいわいとそれを楽しんだ。
「なんじゃ、もう終わりか。ただの遊びかこれは」
「なにもんだお前…」
「…んん、俺は田舎者じゃ、お前がそう言うたんじゃろが」
あたりからどっと笑いが起きた。
しかし、すぐにそれは止み、人込みから数人の男たちが出てくる。
「まだおったんか。めんどくさいやつらじゃのぅ」
「じじぃ見たいな喋り方しやがって、ふざけるのもたいがいにしろ!」
「これは方言じゃ。じじぃが皆こんな喋り方をするもんなら、お前らもいつかこうなるわな」
こらえきれずに野次馬がまた笑う。
しかし睨まれてすぐ止んだところを見ると、この男たちの顔はわりと知られたものだろう。
「笑ろうて過ごすのは大事なことじゃ。他人の楽しみを奪うのは関心せん」
若者の目が鋭く光る。
少し本気を出そうかと、邪魔な上着を放り投げた。
港近くの騒ぎはあっという間に広まって、彫り師の暖簾をくぐっていた。
「ちょっと聞いたかい、見慣れない若い剣士が港近くで暴れているってさぁ」
「へぇ」
「それがわりといい男なんだってよ。見に行かない?」
「…珍しい話じゃないねぇ…」
振り返りもせず、興味も示さず、新しい彫り物の図案を描く。
この手の話はよく聞いた。
ほんのわずかも彼女の心を動かしはしない。
「でもさぁ、ほら…その人、綺麗な彫り物をしてるんだってさ。あんたも見たいだろう? そういうの」
「…彫り物?」
初めて顔をあげた彼女に、友人は嬉しそうに頷いた。
「そうそう、右腕のここんところにさぁ」
友人が二の腕をぽんぽんと叩くのを見ながら、彫り師は筆を置いた。
「巻貝の彫りも…」
「今日は店じまいだ。暖簾、下げといて」
「え?」
笑顔のままで固まった友人は、あっという間に空っぽになった店にぽつんと立っていた。
「……わ…私だって男前見たいのに~っ!」
しばらくぽかんとしていた彼女は地団駄踏んで悔しがった。
詳しい場所など人に聞かずともすぐにわかった。
よそ者が船をおりてすぐ、喧嘩に巻き込まれる場所はそう大して変わらない。
そして何より、見たこともないほど野次馬がたかっていて、それは遠くからでもわかった。
このくらいの距離、走るくらいで息は切れない。
この知らない土地で生きるために、磨いたのは彫り物の腕だけじゃない。身を守るために武術も身につけた。子供の頃に見ていた海の男たちの荒っぽさは知っていたから、女として生きるならそれを跳ね返す力が必要だった。
その力がこの野次馬をかき分けるために少し役にたとうとは思わなかったが。
ちらりと見えた、黒い髪。
いや、トルトにいれば右も左も黒髪ばかりだ。
けれど。
聞き間違うはずもない。
「まだやるつもりか、こりんやつらじゃ」
田舎くさいあの言葉。
最後の野次馬を押しのけて、彫り師は声の主を探す。
「もっと腰を落とさんか、そんなんで踏ん張れるわけないじゃろが」
喧嘩ではなくまるで稽古をつけているかのようなのんきなセリフ。
その男は少し見上げるほどに背が高く、まとめた髪は長かった。
記憶の中の小さな背と、つまんだような髪とは違う。
けれど。
見間違うはずもない。
昔と変わらぬあの笑顔。
そして、その二の腕に刻んだ約束を。
「ソウタ!」
彫り師は声をあげると同時に、喧嘩など気にもせずに駆けだした。
彼女が誰だか野次馬たちは知っている。喧嘩相手の阿呆どもも彼女に蹴とばされた顔ばかり。
「ジェミー!」
気づいた男はすぐに応えた。
あこがれの女彫り師の登場であっけにとられた阿呆どもの目の前で、生意気な剣士は何事もなかったかのように両手を広げた。
駆ける足を止めることなく、ジェミーはソウタの腕に飛び込んだ。
「遅い…っ」
「すまん、道に迷ったわ」
「ホントにバカね」
「…冗談じゃ」
強く大きく育ったソウタの胸に顔をうずめて、わかってるわとジェミーは笑った。
「それにしても、その格好はなんじゃ。いくらなんでも出し過ぎじゃ。マールと違うんじゃから…」
言葉を切ったソウタはジェミーの姿をまじまじと眺め、ぱちぱちと瞬きした後、ほんのり頬を赤くした。
思いのほか、女らしく育ってしまったようだ。
短い髪の、男の子みたいな少女はもういなかった。けれど、彼女に間違いない。ソウタはもう一度照れくさそうに微笑んだ。
手足を隠さぬ格好を貫いていたのにもわけがある。誰もがそれに気がつくように。自分の名と共にそれがソウタの耳に届くように。
最後の夜に一晩かけて、刻んだ約束。
ソウタの腕に砂に貝殻。
ジェミーの足に波に花。
何が何だかわからんが、謎の剣士と噂の彫り師の恋仲は、あっという間にフゥガの町に広まった。
散ったはずの花びらは 流れ流れて海に着き
砂に埋もれた貝殻は 波に呼ばれて顔を出し
貝殻に受け止められた花びらは これいかほどの偶然か
ぴたりと寄り添うふたりの仲を 嵐も引き裂くことはなし
砂に貝殻 波に花
トルトはフゥガのシラナキで 静かに咲いた恋の花
終。
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